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昔の人が残してくれた【赤牛伝説】と災害(水害)と結びつけても良い?

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伝説や民話が好きな方でしたら、赤牛が登場する赤牛伝説をご存じの方もいると思いますが、赤牛伝説と災害(水害)と結びつけることができるのではないか!?

少なくても私の住む地域では実際に土砂災害が起きた場所に赤牛伝説が残されています。

赤牛伝説は日本各地に残っていて、すべての伝説を災害(水害)と結びつけることはできないのかもしれませんが、土石流と赤牛と結びつけることはあったかもしれません。

昔の人が残してくれた【赤牛伝説】と災害(水害)と結びつけても良いのでしょうか。

昔の人が残してくれた【赤牛伝説】と災害(水害)と結びつけても良い?

昔から多くの物語が残され、語り継がれてきた話には後世に残したいという先人の気持ちが伝わってきます。

吉田の大池の赤牛伝説(静岡県伊東市)

吉田(静岡県伊東市)に「一碧湖」と呼ばれる大池がある。周囲の連山を湖面に映し、日本十景の候補地でもありました。(昭和初期頃)

大池は村人達が交通路として舟で行き来していた池でしたが、昔々はこの大池に赤牛が住んでいました。

時々水中から頭を出して人をくわえこんだ。大池は魔の池として人々から恐れられた。

寛永年間(1624~1644)、光栄寺六世の住職、日廣(にっこう)は赤牛を調伏(ちょうぶく)するために池の小島へ立って七日間読経を続けて、赤牛を封じ込めてしまいました。

そしてこの小島に一堂を造り、この小島を経島と呼ぶようになりました。

(参考・伊豆伝説集 後藤江村)

今でも水神の祠が残っていますが、水神様に雨乞いをすると降雨すると言い伝えられています。

明治十九年恐ろしい日照りがあり、田は亀裂が入り、井水も枯渇(こかつ)してしまったときに吉田村民は雨乞いを行いました。(伊豆伝説集より)

今の一碧湖はこんな所です。

一碧湖・沼池は四季折々の季節を感じる最高の散策コース

伊東市 吉田の大池の赤牛は移動していました

寛永(1624~1644年)の頃の話です。
岡村というところの小川沢にある池に神通力をもった牛が住んでいました。

この池は年々浅くなってきたので、住みにくくなってきたので、赤牛は新しい住処を求めて吉田の大池にやってきました。

赤牛はそのまま大池に住みつき、村人が舟で通るとひっくり返したり、村人を脅かしたりしました。

余談ですが、この小川沢に住むお寺の奥さんに聞いた話ですが、1958年9月の狩野川台風のときに川が氾濫して子供をおんぶして逃げたということです。

対島の福泉寺(廃寺)に伝わる赤牛伝説(静岡県伊東市)

静岡県伊東市の対島の福泉寺(廃寺)に伝わる赤牛伝説は、現在の伊東市池という地域に残っている伝説です。

伊東市池は大室山、矢筈山(やはずやま)伊雄山に囲まれた地域で、昔から山崩れなどにより冠水被害が起きている所でしたので、赤牛伝説が生まれたのではないかと・・・?

昔々、対島村(たじまむら)の古池に赤牛が棲んでいました。

長い間住職がいないため廃寺となった福泉寺という寺がありました。この寺に入り、一夜を過ごした旅の僧がいました。

夜が明けても僧は寺から出てこないし、寺の中にもいなかった・・・。

そこで村人は廃寺の怪を知る。

「福泉寺には魔物がいる。前の住職も、旅の僧も喰われてしまったのだ」と言い出しました。

誰も魔物を見た者はいないが、老人が深夜に牛の鳴き声を聞いたと言う。その鳴き声は福泉寺の方だったと。

またあるとき一人の修験者が、この村を訪れました。

彼は福泉寺の怪を聞いて、「我がその怪物を退治する」と言って、福泉寺に泊まり込みました。

翌朝、村人が寺に行ってみると、修験者の姿な無かった。彼の金剛杖(こんごうづえ)だけが一本残されていました。

「かわいそうに。とうとう魔物に喰われてしまった」人々は念仏を唱えながら村に帰って行きました。

それからこの寺を訪ねる者はいなかった。

永正十七年(1520)の秋、美濃国(岐阜県)から齋藤達興(さいとうたつおき)の三男、和泉守良孝が出家してこの村に訪ねてきて寺に泊まった。

古老からこの寺に魔物が棲み、誰でも喰ってしまうと聞いていても、和泉守良孝は生臭坊主ではなかった。

良孝は庭の草をわけて荒れた本堂に入ると、じっと夜を待ち、読経を始めた。

夜更けに牛の鳴き声が聞こえてきました。庭に出ると、大きな牛がのっそりと立っていました。

「何物か、何しに来た」良孝はやさしく言いました。牛はまた鳴きました。

「鳴いてもわからない。人間の姿で来い」と言うと、若い女が現れました。

女は「私は対島(たじま)の池の主でございます。千年も住んでいますが、まだ仏法の有難いことを存じませぬ。今までも仏の功徳を求めてこの寺に来ましたが、いつも怪しまれました。そればかりではなく、私を打ち止めようとするのです。だから私がやむなく僧を打ち止めてやりました」

女はさめざめと泣きました。良孝は哀れに思い、説法しました。

若い女は礼を言うと、寺を出て行きました。

村人は良孝の無事の姿を見て喜び、是非、この地に留まってほしいと頼みました。良孝は村人の願いを聞き入れ、この地に龍渓院を開きました。

赤牛は護法一龍八王大美神となり、龍渓院の本尊となりました。

(参考・伊豆伝説集 後藤江村)

伊東市池はこんなに心地よい所です。

伊東市池の里、美しい田園風景と心のふるさと

ただ、大きな台風が来ると、山崩れや土砂災害、冠水などに悩まされています。

池の平の赤牛伝説(沼津市戸田)

沼津市戸田と西浦を結ぶ山道、さなぎ山に池の平に大きな池があったという。

かっては満々と水をたたえていて、赤牛が住んでいました。

人々をたぶらかすし、困らせていました。ある日、戸田から一人の男がさなぎ山を越えてやってきました。

池の平の池のほとりまで来ると、赤牛が寝ていました。

男は赤牛が村人をたぶらかし、困らせていると知っていたので、やっつけてしまおうと持っていた大鉈をふりかざし、頭をめがけて切りつけた。

赤牛は苦しみながら池の中に飛び込みました。しばらくすると、一匹の大蛇が池の上に浮かび、池の水を引いていった。

やがて池は干し上がり、村人も安心してここを通るようになったという。

椹池(さわらいけ)に伝わる赤牛伝説(山梨県韮崎市)

山梨県韮崎市、甘利山の椹池(さわら池)に伝わる赤牛伝説は、老婆の頭に角が生えてしまい、老婆は手ぬぐいを被って角を隠していました。

ある日、洗濯をしていると、強い風が吹いてきて、手ぬぐいを吹き飛ばしていきました。

そして嫁や近所の人に角を見られてしまい、老婆は甘利山の椹池に身を投げ、池の主となりました。

その後、天文年中(1532~1555)領主の二氏が釣りをしているときに誤って池に落ちてしまったが水底に沈んで現れない。

これは池の主の仕業であろうと、領主は池の椹(さわら)を刈り、池に投げ入れ、その上に土石物などを入れて池を埋めてしまいました。

その時に池の中から投身した老婆の化身である赤牛が飛び出して、大笹池(山梨県韮崎)に走ったのです。

さらに野牛島(やごしま)(山梨県南アルプス市)まで逃げて行きました。

野牛島(やごしま)(山梨県南アルプス市)の赤牛伝説

山梨県南アルプス市野牛島(やごしま)の能蔵池(のうぞういけ)に赤牛が逃げてきました。

池に出てくる化け物は大蛇だったり赤牛だったりしますが、ここでは赤牛伝説を追ってみます。

能蔵池の主となった赤牛は、雨乞いをすれば雨を降らしてくれ、村の人々が困ったことがあると願いを叶えてくれました。

また結婚式などの人寄りなどのときには、お膳のお椀を貸してくれました。

ただ、貸したものを返さない人がいたときや、汚い物を池で洗ったりする人がいたので、赤牛は怒ってしまい池から飛び出しました。

そして甘利山の椹池(さわらいけ)にまた行ってしまい、そこから大笹池(山梨県韮崎)に行ってしまったということです。

赤牛は見事に池から池に移動していますね。

おわりに

静岡県伊東市の「大池の赤牛伝説」「対島の福泉寺(廃寺)に伝わる赤牛伝説」、沼津市戸田の「池の平の赤牛伝説」、山梨県韮崎市の「椹池(さわらいけ)の赤牛伝説」、山梨県南アルプス市の「野牛島の赤牛伝説」をご紹介しました。

昔々は大きな災害が起きると現代みたいな情報を得ることなどできませんでしたから、お祈りをしたり、言い伝えとして話を残してきたのではないかと思っています。

台風などで大雨が続き、土砂流失が起きると赤牛が突進してくるように見えたのではないかと・・・。

静岡県伊東市の赤牛伝説が残る地域では、1958年9月の狩野川台風のときに甚大な被害があり、土石流などで大きな池ができていました。

「今まで経験の無かった災害」は1000年規模で調べると実際に起きていたりするのですよね。

 

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記事作成者ch アメブロを10年以上継続しています。このブログでは年齢を重ねても前向きに。「調査し、探求し、問いかけ、熟考するのです」ウォルト・ディズニーの言葉は私の「大切な言葉」です。
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