昔々のお話 PR

持明院(じみょういん)(じめさあ)の石像に伝わる昔話

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

持明院(じみょういん)(じめさあ)は鹿児島県城山町の鹿児島市立美術館の一角にある石像のことです。

鹿児島市立美術館は旧市役所があった場所のようです。1929年(昭和4年)に当時の市長がこの跡地を通りかかり発見したということです。

持明院(じみょういん)(じめさあ)の石像にはいつの時代も変わらない女性の美への憧れの物語が残されていました。

それは持明院(じみょういん)(じめさあ)は、生まれながらの醜い娘で、背中も弓なりに曲がっていたからでした。

持明院(じみょういん)(じめさあ)の石像に伝わる昔話

じめさあ
持明院の石像
Wikipediaより

持明院(じみょういん)は鹿児島弁で「じめさあ」と呼ばれています。約400年前の島津家18代当主家久の正夫人、亀寿のことです。

今でも1年に一回亀寿の命日の10月5日に市の職員により、石の石像にポスターカラーや口紅を使って化粧直しが行われています。

黒と白を基調に口紅やチークに実際の化粧品を使うというオシャレな石像です。

テレビや新聞でも報道され、地元でも注目されるおもしろいイベント。

実際はこの石像が誰によって彫られたものかは不明のようですが、亀寿は器量が悪かったが、人柄は良く、人々に慕われていたそうです。

持明院(じみょういん)じめさあの石像に伝わる話

島津義久(しまづよしひさ)は天正年間(1573~1592)の頃、弟の島津義弘(しまづよしひろ)と九州統一への戦いのさなか、大成功をおさめたのに義久の心は重くさえなかった。

それは世継ぎに恵まれなかったからだ。特に三人の娘のうちの末娘の亀寿姫は、生まれながらの醜い娘で、背中も弓なりに曲がっていたという。

天正十五年(1587)義久は九州に攻め入った豊臣秀吉の軍門に破れ、剃髪(ていはつ)して謝罪した。

十七歳の亀寿姫は人質となり、大阪に連れ去られたが、幸い一年で故郷に戻された。

そんな亀寿姫に戦略結婚話があった。相手は義弘の子の忠恒(ただつね)。

義久は謹慎中の身であり、家督は弟の義弘が預かっていたが、義弘の子の忠恒(ただつね)の家督相続では亀寿姫との結婚が条件であった。

「誰があんな醜い女と一緒になるものか」と忠恒は鼻で笑っていたが、島津六十万石を手放すわけにはいかない。

島津六十万石の魅力にはかてず、数年後に亀寿姫を持明の方として正室に迎えることにした。

忠恒は名を家久と改め、島津家の二十代の当主となった。

島津 忠恒 / 島津 家久
Wikipedia

 

家久は醜い持明院を嫌い、側室ばかりを寵愛していた。

持明院(亀寿姫)は自分が醜いから夫に嫌われているのだと、運命のいたずらに泣かされ、少しでも美しくなりたいという女心から鏡に向かい、化粧に熱中するようになっていた。

ある日のこと、夫の家久が持明院の部屋まで来て覗いていった。

そこで妻が自室で化粧に夢中になっているのを見た家久は、「醜女(しこめ)めが鏡の前の苦心かな」と冷たい句を投げかけた。

女としてこのうえもない屈辱を受けた持明院は、悲しみと怒りでいっぱいになった。

そして鶴丸城二の丸の庭で自らの命を断つことによって夫に抗議をした。

持明院の亡骸は福昌寺に葬られ、その霊は島津家の霊所の鶴嶺神社(つるがねじんじゃ)にも祀られた。

しかし、その後、持明院の亡霊が現れるようになり、「どうか二の丸に帰してください・・・」とさかんに訴えるようになった。

福昌寺の和尚は、持明院の霊を慰めようとして、巨石に美しい肖像を彫り、二の丸の庭に安置した。

すると持明院の亡霊は、「美しく化粧をほどこしてください・・・」と言ったので、和尚は石像に化粧をほどこした。

その後、この石像に化粧をほどこすと美女に生まれ変わると言い伝えられるようになった。(参考・民話と伝説 持明院の石像 Wikipedia)

 

鹿児島市立美術館の一角西郷隆盛像 Googleマップよりの裏手に「じめさあ」の石像があります。

じめさあの石像 Googleマップより

亀寿姫の像とされています。法名:持明彭窓庵主興国寺殿。10月5日には、化粧直しが行われています。Googleマップクチコミより

おわりに

「醜女(しこめ)めが鏡の前の苦心かな」

なんと酷い言葉・・・面の悪い女は鏡を見るのはイヤだろう・・・と夫に言われた持明院。怒りと悲しみとで心はいっぱいいっぱいになったでしょう。

昔から女性は美への憧れがとても強かったということですね。

この話では亀寿は自害したということになっていますが、

島津 亀寿(しまづ かめじゅ、元亀2年4月26日(1571年5月19日) – 寛永7年10月5日(1630年11月9日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性 Wikipedia

とあるので59歳ぐらいで亡くなっています。顔の醜さで自害した?どんな美女でもこの時代のこの年代では顔の作りは崩れてくる・・・。

今の時代とは違いますからね。

持明院(じみょういん)(じめさあ)の昔話と島津亀寿を結びつけて良いのかわからないところもありますが、愛する人に好かれたいという女心は良くわかります。

「じめさあ」を亀寿と結びつけるのには否定的な見解もあるようです。

夫の家久と亀寿は不仲であったようで、亀寿が亡くなったときに家久は、奥女中に和歌を送っている。

あたし世の 雲かくれ行く 神無月 しくるる袖の いつはりもかな

意味ははかない世の中よ、亀寿は神無月に亡くなってしまった。涙で袖が濡れるほどかと言われると、そこまでではないが。

福昌寺の跡地にある島津家歴代の墓で、家久と亀寿の墓は並んでいないということで、不仲説は本当だったのかも。

玉龍山福昌寺跡 Googleマップより

 

ABOUT ME
c.h
記事作成者ch アメブロを10年以上継続しています。このブログでは年齢を重ねても前向きに。「調査し、探求し、問いかけ、熟考するのです」ウォルト・ディズニーの言葉は私の「大切な言葉」です。
こちらの記事もおすすめ!