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昔話、伝えられている悲恋、九州地方で語り継がれてきた話

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昔話とはいえ、恋愛感情は今と同じなのだと感じることができる伝説の中から、九州地方に伝わる「悲恋」をご紹介します。

今ではアニメやゲームで昔の話を知る人が多いのかもしれませんが、「語り伝えられてきた話」というのは、重みや温かさ、悲しみ、恐ろしさが込められていると思います。

あまり知られていない話を掘り起こしていくとおもしろいかもしれませんよね。

昔話、伝えられている悲恋、九州地方で語り継がれてきた話

昔から語り継がれてきた話は今ではアニメやゲームの世界で形を変えて残っているかもしれませんが、おじいちゃんやおばあちゃんから聞くことは少なくなってきたと思います。

世の中は大きく変わっていきますが、良いことも悪いことも「今と変わらない心」というのはあるのです。

宮崎県東臼杵郡椎葉村 椎葉(しいば)【大八郎と鶴富姫】

宮崎県東臼杵郡椎葉村にある歴史的建造物。国の重要文財。鶴富屋敷Wikipedia

「平家落人伝説」とも伝えられています。

800年以上も前の壇ノ浦の合戦で敗れた平家の武士たちの哀話は知られていますが、日向の山奥(宮崎県東臼杵郡椎葉村)椎葉(しいば)に伝わる悲恋です。

壇ノ浦の戦い後にひっそりと戦場を脱した平家残党の一部が山奥椎葉に潜伏していると鎌倉幕府に知れると、幕府は下野の住人那須大八郎与一宗久に追討を命じた。

大八郎は元久二年(1205)九州へ渡り、椎葉に入ると大八郎が目にしたものは、京の都での栄華もよそに狭い山腹を耕して農耕をやりながらひっそりと暮らす老若男女たちだった。

貧しいながらも平和な明け暮れを見ていると、大八郎は追討を断念し、幕府には討伐を果たしたと伝え、自らもこの地に屋敷を構えて、ここに住む人々に農耕を教えようと決意した。

やがて大八郎は平清盛の末孫といわれる鶴富姫(つるとみひめ)と出会い、逢瀬を重ねるようになった。

そして数年が過ぎると、突然幕府から帰国命令もたらされたのです。大八郎は椎葉の人たちとの別れに心を痛めたが、鶴富姫との別れは生身を裂かれる思いであった。

鶴富姫はそのときには身ごもっていた。

大八郎は後ろ髪を引かれる思いで椎葉を去っていったが、産まれる子が「男子ならば本国下野に差しよこし、女子ならそこで育てよ」と。

産まれた子は女の子で、鶴富姫は大切に育てました。その娘が成長すると婿を迎えて「那須下野守」と名乗らせた。

宮崎県民謡のひえつき節で歌われています。

♪那須の大八 鶴富捨てて  ヨーホイ

椎葉立つときゃ 目に涙

鶴富姫の墓

熊本県玉名郡長洲町【女石・十二石神社】

熊本県玉名郡長洲町の名石(めいし)神社には重さ二十八トンもある巨大な石が祀られています。
この石は女石(めいし)大明神とも呼ばれています。

日本の第十二代天皇景行天皇(けいこうてんのう)が南九州の熊曾(くまそ)を平定され、その帰りにこの地に寄りました。

土蜘蛛(つちぐも)という賊軍と一戦を交えた。

土蜘蛛/土雲(つちぐも)は、上古の日本においてヤマト王権・大王(天皇)に恭順しなかった土豪たちを示す名称である。各地に存在しており、単一の勢力の名ではない。Wikipedia

苦戦だったが天皇が勝利をしました。

日向の国におられた妃の美波迦斯毘売(みはかしびめ) はこの知らせを受けると、愛する夫に一目会いたいと十二人の待女を従えて遠く玉名の地まで訪ねていきました。

しかし景行天皇はすでにたたれた後でした。
妃は嘆き、国津神の職の老夫婦に瑞玉(ずいぎょく)という宝石を渡し、帝から賜った品物ゆえ大切に守るようにと言い、待女たちと海へ身を投げてしまった。

この玉をご神体として祀ったのが、名石神社です。

年は流れ、承平三年(933)、妃が身を投げた浜辺に突如大石が海面にあらわれた。

「われは景行天皇の妃、女石大明神である」とご神託を下された。里人はこれこそ入水された妃の化身であろうとおののき、海底の大石をご神体として祀った。

時は流れ、昭和四十八年、付近が埋め立てられるときにこの大石は千数百年ぶりに陸へ引き上げられ、名石神社神殿の横に祀られた。

長洲町の十二石神社には妃とともに入水した待女の変わり果てた姿であろう石が祀られています。

名石神社

十二石神社

熊本県本渡市浜崎町【兜梅(かぶとうめ)】

加藤清正(安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将)は今でも熊本では親しまれているようですが、当時の荒ぶる戦場の中では悲劇も生まれていたようです。

愛する夫を失い、夫の敵を討とうと兜に身を固め、馬にまたがり男装のお京の方は敵陣に駆け入ったという話が残されています。

天正年間(1573~1592)春の天草。
木山弾正(きやまだんじょう)は天草合戦で加藤清正と一騎打ちを行い、悲運の生涯を遂げました。
弾正の正室のお京の方は、美貌の持ち主であったが、男勝りの気質で知られていました。

「城は落城するのは明らか。せめて憎き夫の敵加藤清正の首を供にせん」
と、夫、弾正の鎧、兜に身をかため、馬にまたがり城外へ。

男装のお京の方は縦横無尽に敵を蹴ちらして、その戦いぶりに、清正軍勢は女とは気づかなかったのでした。
しかし、お京の方の兜が梅の枝に引っかかり、兜が落ちてしまいました。

「女だ!」女とわかるとなだれ打って清正の軍勢は襲いかかり、お京の方は「無念なり。これから永久にこの梅は花は咲くとも実はつけさせない」と言って相果ててしまいました。

それ以来延慶寺の境内にある梅の木は実がならなくなったと伝えられています。
延慶寺境内には兜梅が今でもあります。

お京の方戦死地に建立された熊本県本渡市浜崎町延慶寺

佐賀県唐津市【松浦佐用姫(まつらさよひめ)の物語】

一途に男を想う姫の物語。
五代の天皇に仕えた大豪族である大伴金村(おおともかねむら)の息子、大伴狭手彦(おおともさでひこ)は華やかな都の貴公子でした。

佐用姫は松浦長者の娘で、北九州の唐津、篠原村に住んでいました。
宣化二年(537)狭手彦は兄の盤とともに九州にいきました。
任那(みまな)を助け、新羅(しらぎ)を討つためでした。
古墳時代に登場した朝鮮半島の3つの国が高句麗、任那、新羅です。
大和朝廷は4世紀の後半に百済と親交を結び任那政府を樹立、さらに新羅を従わせていました。
新羅は東南側を占めていたので、中国大陸と通じる交通網を持っていませんでした。
それで百済や任那と抗争が絶えなかったのです。

それを治めるために狭手彦は兄の盤とともに九州にきました。
兄は筑紫の国にとどまり、弟の狭手彦が朝鮮半島に進攻することになりました。
狭手彦は出陣するための軍船の建造、整備などが行われる間、長者の娘に身のまわりの世話をまかせていました。
身分の高い者には身分の低い者に世話をさせるわけにはいかなかったから長者の娘、松浦佐用姫(まつらさよひめ)が世話をすることになりました。

二人は恋に落ちました。

やがて出陣のときがきました。佐用姫は鏡山に駆け上り、狭手彦の舟を見送ったのでした。
このとき佐用姫が領巾(ひれ)をうち振ったというので、鏡山のことを領巾振山とも伝えられています。

佐用姫は舟が見えなくなると鏡山を下り、松浦川を渡り、狭手彦の舟を追いました。
そして悲しみのあまり岩になってしまいました。

佐賀県唐津市 佐用姫神社

<参考・民話と伝説・九州>

福岡市東区馬出【お綱門の由来】

福岡城は現在城跡が残っているだけの史跡となっていますが、福岡城には「お綱門」という門がありました。
お綱門はお綱が血に染まりながらたどり着いた所だと言い伝えられています。

お綱はここに怨念を残し、亡くなったと伝えられています。

お綱は江戸の寛永時代に福岡の大名町に住んでいた浅野四郎左衛門(あさのしろうざえもん)という武士の妻でした。

歴史や伝説、民話に興味のある方で現地に行ってみようと思った方は、気をつけて行ってくださいね。

民話と伝説(北九州)より、「お綱のうらみ」をご紹介します。

福岡の大名町に住んでいた浅野四郎左衛門(あさのしろうざえもん)という武士はたいへん美しい男でした。

妻のお綱は酷く醜い女でした。美しい浅野四郎左衛門(あさのしろうざえもん)がなぜこのような妻をめとったのかたと言われていたという。

しかし、二人の仲は良く、二人の子供にも恵まれ仲むつまじく暮らしていました。

2代目の藩主、黒田忠之が参勤交代のとき大阪で遊んだことのある芸妓采女(うねめ)を気に入り福岡まで連れて帰ってきました。

しかし、国家老栗山大膳のいさめにあって、采女を手放すことにして、これを四郎左衛門に下げ渡しました。

四郎左衛門は最初驚きましたが、妻のお綱にはない若さと美しさをもった采女に惹かれるようになっていきました。

お綱と二人の子供は下男と下屋敷に住まわせていましたが、次第に疎遠になり、衣食もこと欠く貧しい生活となっていきました。

お綱はせめて子供の節句の支度にと夫の家に下男を向かわせたが、采女に侮辱され追い返されてしまい、下男はそれを苦に自殺をしてしまいました。

それを知ったお綱は半狂乱。二人の子供を殺してしまい、長刀を小脇にかいこみ四郎左衛門のいる本宅に駆け込んでいきました。四郎左衛門は登城中で留守でしたが、そこにいた浪人の明石彦五郎に斬られてしまいました。

だが積もり積もっていたお綱の怨念はメラメラと燃え上がり、深手を負っていてもよろめきながらも城内にたどり着いたのです。

しかし、お綱の気力もそこまで。城門にもたれかかったまま絶命してしまう。寛永7年(1630)桃の節句の日でした。

それ以来、この門は「お綱門」と呼ばれるようになりました。

お綱の怨霊はその後も祟りをまき散らしたということです。

優しかった夫が若い女性に心を傾け、しだいに夫婦の仲は悪化。
妻の怨念は凶事となって爆発。

ご用心くださいませ。

<参考・民話と伝説13・北九州>

大分県杵築市(きづきし)北杵築(きたきづき)【豊姫と白粉地蔵】

大分県杵築市(きづきし)北杵築(きたきづき)に轟淵(とどろきふち)と呼ばれる淵があり、ここに石仏群があります。

石仏群の中央に白粉で化粧をしているお地蔵さんがあり、尊顔に白粉を塗って祈れば美人になると厚く信仰されています。

こんな話が残されていました。

豊姫と白粉地蔵

元中二年(1385)竹の尾城の城主であった木付頼尚(きつきよりなお)に二十七歳になる一人の娘があった。

名は豊姫。賢く、情深かったが醜い顔立ちだったので、良縁に恵まれずにいました。

姫は地蔵信仰に熱心で、それが心の拠り所となっていた。

ある日、二十七歳の豊姫に降ってわいたような良縁が持ち込まれた。

相手は安岐城主、田原頼康(たはらよりやす)。婚約した豊姫は嫁ぐ日を指折り数えて待っていたのだが、姫の良くない噂が広がり、破談となってしまった。

姫の良くない噂にかこつけての破談状であったが、醜い姫の容姿が理由かもしれなかった。

姫は「もう二度と私に婚儀の話など訪れることはあるまい」とある晩、皆が寝静まったころに城を抜け出した。

姫は嘆き悲しみ、「轟の淵」に身を投げた。

父頼直は娘を哀れに思い、石工に命じて大きな石を割り、二体の地蔵尊を刻ませ、轟の淵に一体、もう一体を竹の尾城に安置し、姫の冥福を祈ったと伝えられている。

地蔵の顔に白粉をぬって祈願すると美人になると言われている。

このように人々の信仰は厚く、御礼に奉納された石仏が山積して石仏群となっている。

<参考・民話と伝説13北九州・大分県昔話 轟地蔵と十王像>

Googleマップより 轟地蔵

竹林に囲まれた川のせせらぎ聴こえる静かなスポット 杵築市西国観音霊場第十二番であり此処に祀られている像は市から重要文化財の指定を受けている 良さげな所である 幾百とある苔で覆われた小地蔵の中に一際目立つ化粧を施されてた地蔵が一体 これこそが轟地蔵 伝説によると木付頼直が入水した娘の為に建立したとされる地蔵で願掛け地蔵としても有名らしくこの地蔵に白粉を塗ってお参りすると願いが叶うらしい 口紅まで塗られている そのお参りの御利益があったのか御礼に奉納された多くの小地蔵が安置されている その正面には十王像 吉野朝時代末期の秀作で冥界にあって死者の罪業を裁断する十の王を彫った石像 勿論、一体一体の表情も形も違う十王 像に生えた苔が何とも言えない♡ 十王像と轟地蔵の間の奥にある堆積岩の岩肌には滝が流れている 写真で見たら結構な水量だったけど今回はあんまりな量である なので場所を轟の淵に変えて自然を感じる 木付氏の娘が身を投げた淵らしい 流れ落ちるなだらかな滝もある 南無阿弥陀佛と刻まれた石碑も建つ こんなスポットが一反だね~ 癒されました♡ Googleマップクチコミ

こちらも昔々の話です。

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