平安時代、京で行われた後三条天皇(ごさんじょうてんのう)の相撲節会(せちえ)が行われ、優勝した日田どん。
後三条天皇(ごさんじょうてんのう)は、日本の第71代天皇。(在位1068年5月より1073年1月)
相撲節会(せちえ)というのは、奈良時代から平安時代に行われた宮中の年中行事。
今回ご紹介する昔々のお話は、30年以上優勝し続け、日本一の相撲の記録を作った相撲の神様の話です。
今でも相撲の神様として崇められている日田どんの話とはどんな話でしょう。
大分県日田市 日田神社、相撲の神様、日田殿(ひたどん)の話
平安時代後三条天皇の時代の話です。
日田殿・大蔵鬼太夫永季(ひたどん・おおくらおにだゆうながすえ)は、生まれたときから人なみはずれた大きな子でした。
永季(ながすえ)は背丈6尺以上(今でいうと2メートルぐらい)という大きさ。年齢は16歳の時からの話です。
大きな体だったので、力もあり、相撲をとっても負けず知らずでしたが、気持ちの優しい少年でした。
相撲の神様、日田殿(ひたどん)
永季(ながすえ)の父は日田郡司(ひたぐんじ)であり、普段から善政を敷いて郡民から慕われていました。永季(ながすえ)は祖父母や親から大事にされ、病弱でもありました。
母親は気丈な肝っ玉かあさんであったという。
息子は期待にたがわぬ豪力青年に成長し、相撲大会では常に優勝して父の目を細めさせていました。
そのうち彼の豪力ぶりが都の後三条天皇に知られることになりました。
永季(ながすえ)は十六歳のとき、宮中相撲節会に召されることになりました。
相撲の節会(せちえ)というのは、朝廷で催された御前相撲大会のことで、諸国から集めてきた選手を東西に分けて、どこが豊作になるかを占って勝負が行われました。
熱の入った熱い行事でありました。
永季は信仰心の強い男であったので、日田郡の総氏神様の大原八幡宮、有田の産土神、大行事八幡宮に祈願しました。
そして京都へ向かう途中、太宰府の天満宮に最後の必勝祈願をかけようと思い、筑前甘木の大根川を通ったときに、そこで遊んでいた童女に声をかけられました。
「あなたと優勝を争う相手は出雲の小冠者になるでしょう」
出雲の小冠者は体は普通の大人よりは小さいが、全身が鉄のかたまりのような人。
その上、身のこなしが飛鳥のようでした。
というのは、小冠者が母の胎内にいた頃、母親が強い子を望み、鉄粉を食事にしていたという。
故郷では非常に強かったとはいえ、永季はまだ十六歳。
童女は永季に肩車をしてもらうと、永季の耳元で秘策をささやきました。
半信半疑であったのだが、相撲が始まると、童女の言う通り準決勝で残ったのは、永季と小冠者でした。
小冠者は噂以上の強者。相撲四十八手に精通、鉄柱のような健脚であった。永季の肩ほどしかない小冠者に組み付く手立てがない。
永季は棒立ちとなり、一瞬目を閉じたときに、童女の言葉がよみがえってきました。
「額の三寸程の柔らかい所を強く押すしか勝つ術はない」
彼は太い指で、小冠者の額を突きまくりました。小冠者はたまらず地を這うことになりました。
こうして永季はやっとの思いで強敵小冠者を倒しました。
永季は国に戻ると、大根川のほとりに天神様の祠を作り、感謝しました。
永季は天皇の御前に召されたとき、お褒めの言葉と「なんでも望むものをとらわす」と仰せられました。
その後、父の死後、郡司となりましたが、長治元年(1104)相撲節会の後に病気で四十九年の生涯を閉じました。(参考・民話と伝説 北九州)
※どうして小冠者は一ヶ所弱点があったか。母親が一度だけ甘瓜を食べたため、小冠者の体にも一ヶ所柔らかい部分ができたらしい。
(参考・民話と伝説 北九州)
日田神社案内看板より
この日田神社は相撲の神様での日田の郡司大蔵鬼太夫永季及びその祖永弘、永興の三柱を祭ってあります。永季は相撲が強く日田殿(ひたどん)と呼ばれ後三条天皇の天覧相撲で出雲の小冠者を倒して優勝したといわれ天覧相撲には十五回程出場し、相撲の神様としてあがめられています。日本相撲協会も日田で巡業のときは必ず参拝し相撲の発展を祈願します。
Googleマップのクチコミ
日田殿を相撲の神様として祀る日田神社
Googleマップ 日田神社(相撲の神様)
平安時代、宮中での相撲の節会で無敗を誇った「日田どん」こと日田郡司大蔵永季や大蔵氏の祖鬼蔵永弘、父親の永興を祭る神社で、相撲の神として知られています。 境内の真ん中に屋根付きの土俵があるのが特徴的です。社殿はコンクリート建築なので、趣きに欠けます。 駐車場はありませんが、雨天でなければ、境内に直接乗り入れできます。国道を隔てた花月川城町橋のたもとに公衆トイレと障害者優先駐車場が2台分あります。
Googleマップクチコミより
境内の真ん中には屋根付きの土俵があります。
近くに住んでいる方たちもこのような話が残されていることを知らないかもしれませんね。郷土を愛する気持ちに繫がりますように。
日田殿が必勝祈願をしたと伝わる日田郡の総氏神大原八幡宮(Googleマップより)
しだれ桜を観賞した後に参拝です。 駐車場から小高い森の中に神社が見えます。鳥居は古い石造りで、社額には「大波羅神社」。古びた庭園の池を神橋で渡ると、大鳥居の先は真っ直ぐな長い石段で圧倒されます。 登ると赤い楼門があり、意外な大きさに驚きました。境内は広く拝殿は壮麗な感じがします。 祭神は八幡様。天武天皇の時代に八幡様が現れた事が由来です。 裏側には末社がいくつもあり、陸軍小倉造兵厰終焉の地の碑があるお稲荷様や、酒と林業の神としてオオヤマツミ様などが祀られています。 思いの他広くて、古びた石造り構造物が多く、昔から栄えていた社だと感じました。 日田は、江戸期には天領として九州諸藩に街道が通じ、人の往来も多く林業や金融で栄えました。恐らくは、その頃から崇敬厚い神社だったのでしょう。Googleマップのクチコミより