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源頼朝との禁じられた恋!悲恋の八重姫の話

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平治の乱(1159年)で敗れた源頼朝は平清盛の継母池禅尼(いけのぜんに)のはからいにより、永暦(えいりゃく)元年(1160年)三月に伊豆国韮山の蛭ヶ小島に流されました。

このとき頼朝は十四歳でした。知らない土地に流され、約二十年間この周辺の土地で過ごすことになります。

・・・ですから、伊豆半島には源頼朝関連の伝説が多く残されています。

二十年間雌伏(しふく)したのち、平家打倒に立ち上がります。

・・・その前に、お年頃の頼朝は政子と出会う前に出会った女性が数々いたようですが、その中の一人、豪族伊東祐親の娘、八重姫に心を寄せました。

(軍記物 曽我物語によると頼朝は政子と出会う前に八重姫と出会っています)

源頼朝との禁じられた恋!悲恋の八重姫の話

源頼朝と八重姫の悲恋の物語は多くの方が残してくれています。

十四歳の少年が田舎の見知らぬ土地で過ごすこととなりましたが、周りの人たちは温かく見守ったようです。

頼朝の父は源義朝、母は熱田大宮司藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘です。ですからこの時代、長男ではなくても良い待遇を受けました。

源義朝の後を継ぐ人と見られ、右兵衛佐となっています。

伊豆の流人の頼朝の平治の命令で監視役になったのは北条時政や伊東祐親(いとうすけちか)です。

監視役はいましたが伊豆では平氏の力が及ばなかったので、厳しいものではなかったといいます。

頼朝の生活は先祖の供養、写経、読経だったようです。最初のうちは・・・。

そのうち、自由に伊豆各地を歩いていた?ようです・・・。

頼朝二十六歳の時に伊豆の伊東の地に伊東祐親が建てた住居に住んだという話が残されています。

伊東祐親の建てた住居は「北の小御所」で、源頼朝は特別な扱いをされ、優雅に過ごしていました。

承安三年(1173年)伊東祐親は大番役で上京することになりました。

頼朝と八重姫の恋愛は祐親が上京中の出来事だったようです・・・。

悲恋の八重姫

平治の乱で敗れた源頼朝は伊豆の蛭ヶ小島に流謫(るたく)されました。

流謫(るたく)とは官位を落とされ、遠方に流されることです。衛暦元年(1160年)のことです。頼朝は十四歳でした。

頼朝が二十五歳の頃、伊豆東海岸に勢力をはっていた豪族伊東祐親の娘、八重姫と恋仲になります。

八重姫は美しく、明るく素直な娘で、二人は日に日に恋心を深めていきましたが、二人の恋は大っぴらにできるものではありませんでした。

頼朝は流人であっても天皇の血を引く源氏の御曹司。八重姫の父は平家の家人として大番役を任じられていました。

音無の森で

音無神社(音無の森)源頼朝と八重姫が逢っていた場所(曽我物語より)

二人は人目をはばかって、音無の森で逢瀬を重ねていました。

密かに逢瀬を重ねていた・・・?

音無神社の場所はこちら。

音無の森 音無神社 Googleマップより

歴史と物語の詰まった趣のある神社です。撮影許可を得る為社務所へ行ったのですが、対応して頂いた方がとても丁寧に神社について説明してくれました。
夜間の竹灯籠によるライトアップはすぐ脇を流れる松川と遊歩道の竹灯籠と相まって、非常に幻想的です。昼間でも夜間でも見所のある素敵な神社です。Googleマップクチコミより

八重姫が姿を現すのをじっと対岸の日暮しの森で待っていた頼朝。だからこの場所は「ひぐらしの森」と言われるようになりました。

ひぐらしの森 日暮八幡神社 Googleマップより

頼朝が八重姫との逢瀬のために日がくれるまでこの森で待っていたそう。音無川を挟んで、対岸には実際の会瀬の場所といわれる音無神社がある。当時の風景を想像。Googleマップクチコミより

「音無の森」というのは伊東大川の側にありますが、川のせせらぎの音が二人の恋の邪魔をするので、頼朝が一喝したら音がしなくなったので、「音無の森」と言われるようになったのだとか・・・。

対岸にひぐらしの森が見えます。昔は川がひぐらしの森まであったそうです。

音無の森の音無神社には小さな祠があります。

八重姫は頼朝の愛に応えていて、頼朝の真心を大切にしていました。そして懐妊をして、生まれた子を「千鶴丸」と名付けました。

二人が出会った所は?一説によりますと、狩りに出た頼朝が帰りに甘酒屋に寄り、川奈の浜で貝拾いをした八重姫とこの甘酒屋で初めて会ったのだとか・・・。

この甘酒屋は「恋の甘酒茶屋」と言われていたといいます。

稚児ヶ淵(ちごがふち)

頼朝と八重姫の子は、源氏の御曹司と平家の家人を父に持つ娘の子。八重姫の父は平家の目を気にしていました。

父(祐親)は松川の上流の淵に千鶴丸を沈めてしまうよう、命令しました。

その淵の名は稚児ヶ淵(ちごがふち)と言われています。

伊東市富戸(ふと)の産衣石(うぶぎいし)

物語は続きます。

稚児ヶ淵(ちごがふち)に千鶴丸を沈めたと曽我物語には書かれていますが、伝承では流されて亡骸は富戸の海岸にたどり着きました。

そこには大きな岩があり、「産衣石」と呼ばれています。漁師が千鶴丸の亡骸をその岩の上に安置し、手厚く葬ってあげました。そのときに産衣を掛けたので「産衣石」と呼ぶようになったと言われています。

宇根展望台(うねてんぼうだい)まで歩いてみましたこちらに産衣石の写真があります。

産衣石の上に安置し、手厚く葬ったのは甚之右衛門という漁師で後に鎌倉に幕府を開いた源頼朝に呼び出され、「生川」という姓と記念品をもらったということです。

おとどいの橘(たちばな)

おとどいというのは兄弟のことで、千鶴丸が稚児ヶ淵まで連れて行かれるときに、千鶴丸をあやすために、伊東の鎌田というところにある神社にある橘の枝を持たせました。

富戸の海岸に流れ着いたときにも千鶴丸はその枝を持っていたので、その枝を富戸の三島神社の社殿の前に植えたところ、しっかりと根付いて成長したので、鎌田の神社の橘と富戸の三島神社の橘は「おとどい(兄弟)の橘」と言われています。

悲しい恋

自分の身を守りたい祐親は頼朝と八重姫の仲を生木を裂くように離してしまい、北条時政の家臣のもとに無理矢理嫁がせようとしました。

頼朝をも始末しようとしたのです。それを知った祐清は頼朝を助けようと馬を走らせ伊豆山の走湯権現まで脱出させました。その後、北条時政邸に向かったという。

八重姫は狂わんばかりに騒ぎ、悲しみました。

おわりに

頼朝はその後、伊豆の豪族、北条時政の娘政子と出会い、妻にしました。

華々しく歴史の表面に出てきたのは、頼朝と政子ですが、禁じられた愛の話がひっそりと語り継がれていることは忘れたくないです。

頼朝と八重姫が一緒になると、平氏は伊東一族を滅ぼしにかかることもあったと言えますよね。今の時代では考えられないことですが、忠誠を誓うことが必要な時代でした。

話が事実だったかどうかよりも、何百年も伝えられていること、今の時代の若い人達が興味を持っていることなどを考えると、時代は違っても恋する心は同じということでしょう。

見果てぬ夢を見続ける女心・・・ですね。

(参考・伊東の民話と伝説 編・宮内卯守 民話と伝説 東海・南紀)

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