民話や伝説を探っていくと河童(カッパ)が良く出てきます。河童は日本の妖怪で日本全国の民話・伝説の中に登場してきます。
日本全国の河童を求めて探し回る旅などしてみたいと思う人も多いと思いますが・・・?
どうして河童というものが存在し、日本全国に話が残っているのかはわかっていないようですが掘り起こすとおもしろいです。
江戸時代には河童は爆発的に人気と共に日本全国に広まっていったといいます。
今でも地味に好まれているのではないでしょうか?
参考にしてみてください。
【河童伝説】河童(カッパ)を求めて旅する方のために
河童を求めて旅をすることは大変おもしろいことだと思いますが、気をつけなければならないことがあります。
観光地化していない所に行きますと、足下が危ない場合もありますので気をつけてください。(笑)
河童の民話・伝説から河童を探す旅へ(参考・民話と伝説 南九州・沖縄 武田静澄他、河童の世界 石川純一郎)
河童はどこから来たのか【櫛引八幡宮に伝わる話】
河童の誕生の伝説の一つをご紹介します。
青森県八戸の 櫛引(くしびき)八幡宮の社殿はたいそう立派なものなので、名人大工左甚五郎(ひだりじんごろう)が建てたものだと伝えられています。
江戸からやってきた甚五郎は忙しかったのか、八甲田山のコンガラ沢のけやきの木を尺の測り間違いで無駄にしてしまい、ヌキを通したまま馬淵川に捨ててしまいました。
左甚五郎とあろう者が間違いは許されない。
捨てられたヌキを通したままの柱の一部はメドツになったということです。
※メドツ・・・河童
柱のヌキは河童の手で、右手を引っ張れば左手が短くなるということ。捨てられるときに「尻でも喰え」と怒鳴られたということで、川で人や馬の尻を狙うようになったということです。
Googleマップより
青森県八戸 櫛引八幡宮
なぜ河童は頭部がハゲになったのか
河童の頭のハゲ、お皿についての一つの話です。
青森県八戸市櫛引八幡宮に伝わるメドツ(河童)の話の続きとなります。
馬淵川に捨てられた柱のヌキが河童になり、村の子供や馬に悪さをするようになりました。村の人々は増えた河童どもを戒めてもらおうと八幡様にお願いをしました。
八幡様は河童を呼びに行かせたけれど、河童はいつも「忙しい、忙しい・・・」と言って応じない。
そこで、矢倉の沢に住む鷹に言いつけると、鷹は河童の首をくわえて戻ってきました。
八幡様が河童に「甚五郎も悪いが、人や馬に悪さをするおまえも悪い。もう悪さをするのはやめろ」と言いました。
河童は「尻子玉を取らないと死んでしまう」と言って言うことを聞かない。
すると側にいた鷹が河童の頭をつついた。八幡様は傷ついた河童の頭に薬をつけてやりながら、「それなら毎年七月七日から十六日までの間、矢倉から里川の川口までの間で、人一人、馬一頭だけ取ることを認めてあげよう」と言ったという。
傷ついた河童の頭頂はハゲて皿となりました。皿が濡れているときは千人力を出すということです。
(参考 ふるさとの伝説 川合勇太郎・河童の世界 石川純一郎)
鹿児島県川内市の戸田観音【ガラッパ】
鹿児島県川内市にある戸田観音(淵上山持宝院平徳寺跡)に伝わるガラッパの話です。
薩摩第一の流れ、川内川沿いに宮之城があったときの話です。
城主 渋谷徳重には目の中に入れても痛くない姫君がいました。大切に育てられた姫はヤンチャで腰元たちを困らせてばかり。
ある日、川遊びに出かけたいと腰元を困らせていると、「姫様、あの川にはガラッパといういたずら者がよからぬことをいたしますよ」と老女が注意してもそれを振り切り腰元7人とお城を出てしまいました。
川岸で遊んでいたものの、やがてそれにも飽きてしまい、小舟で川の中に漕ぎ出して行ってしまいました。
小舟にはお菓子や胡瓜(きゅうり)も持っていきました。するとどこからともなく『ひとつください。胡瓜を・・・』小さな声で聞こえてきました。
すると水の中からガラッパたちが顔を出してきて、腰元たちは腰を抜かしてしまいました。
ところが気丈な姫は、胡瓜を投げ与えたのですがガラッパたちはもっと、もっとと欲しがりました。怒った姫が「無礼な!いい加減にいたせ!」と言ったときにガラッパが姫を川の中に引きずり込んでしまったのです。
慌てた腰元達は姫を助けようと次々と川の中に飛び込みましたが、それっきり水面には上がってきませんでした。
数日して姫を始め、腰元達の遺体が川から引き上げられました。
城主徳重は深く嘆き悲しんで哀れな姫の霊を慰めるために戸田の川岸に観音菩薩を祀ることにしました。
戸田観音には今でもガラッパのゾウが安置されているそうです。
ガラッパとは鹿児島地方の方言で、河童のことです。
島津氏との協調と対立
長禄3年(1459年)9代徳重の頃、虎居城の傍の川内川で徳重の娘が侍女と共に入水する事件が起こる。これは一説に、娘が父の行状を諌めるための自殺ともされる。Wikipedia
Googleマップより
鹿児島県鹿児島郡十島村平島にはガラッパに会ったことがあるという人がいたそうで、この人はイガフグを釣りに行ったときに岩陰で火を焚いて横になっていたところ、ガラッパが来てそこに座ったという。
膝頭と頭が同じ高さで口からはヨダレを垂らしていたので臭かったそうです。
ガラッパと会ったその人はそれから寝込んでしまったという。
水虎(すいこ)
水虎(すいこ)は中国の妖怪。
水虎(すいこ)は、中国湖北省などの川にいたとされる伝説上の生き物。3・4歳ぐらいの子供の大きさをしており、水虎という呼び名は虎に似た要素を体に持っていること由来している。Wikipedia
九州は河童の足跡が多く、特に福岡県うきは市を流れる筑後川支流の巨瀬川の流域は河童伝説が多いとされています。
時々現われては村人に悪さをしたり、馬の尾にとりついたりして困らせていました。
熊本県天草郡の志岐八幡宮には、「河童の手」が残されていて、この河童の手を使って村人の病を治したという伝説が残されています。
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筑前遠賀郡相原に善福寺【河童の詫び状】
筑前遠賀郡相原に善福寺があります。寛永十七年(1640)の話ですが、この村の伊右衛門方の牛小屋で大きな物音がしました。
何事かと家の者が見にいくと、河童が飼い牛の手綱を引いて行こうとしていました。
家の者は河童を捕らえて殺そうとすると、河童は必死に助命を乞うので、命を失いたくないのなら「狩尾明神の氏子に手出し仕らず」と詫び状を書けと言いました。
詫び状門は善福寺の寺宝となっているのだとか・・・。
(参考 民話・伝説 南九州・沖縄)
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静岡県賀茂郡河津町 栖足寺(せいそくじ)【河童のカメ】
谷津(河津)の栖足寺(せいそくじ)は元慶元年(877年から885年)開基。
こちらに河童のカメがあります。
高さ一尺三寸、口径四寸。※(一尺は十寸、一寸は3.03㎝、一尺三寸は39.39㎝、口径四寸は12.12㎝)
昔々、寺田の田植えを済ませた農夫が馬を洗っていると、急に馬が岸へ飛び上がった。
見ると、馬の尻尾に河童がぶら下がっていた。
「河童がいたぞ!」農夫が叫ぶと田にいた大勢の男女がかけつけてきた。
「殺せ、殺せ、生かしておくと子供を引いていくぞ」
人々は口々に言って河童をとりまいた。この騒ぎを聞きつけて寺の和尚さんがのこのこと出てきました。
「珍しいものだの、だが今日は寺田の田植えじゃに、殺すのは止めて下され」
和尚はそう言って河童の命乞いをした。
「河童!わしが見つけなければ命はなかったぞ。助けてやるからどこか遠くへ行きなさい。この川にまごついていると殺されてしまうぞ」
和尚は河童を河津川に逃がしてやった。河童は命を助けてもらえて嬉しそうに水の中に逃げて行った。
その夜のこと、和尚の部屋の雨戸をかるく叩く音がする。和尚が雨戸を開けると白髪の老人がしょんぼりと立っていた。
「誰じゃ」
『命を助けていただいた河童でございます』
「何しに来たのだ」
『和尚さんの教え通り遠くへ出かけます。これはお礼のしるしですから受けてください』
河童はそう言って一つのツボを出した。
すると白髪の老人の姿は消えてしまい、ツボだけが残った。
河童はそのまま遠くへ逃げてそれから河津川で河童に殺された子供はなかった。
「河童のツボ」を耳にあてると川の流れの音が聞こえるという。
そして河童に驚いて飛び上がった馬の蹄の跡が栖足寺(せいそくじ)裏の河津川に残っていると言われている。
(参考 昭和6年刊行後藤江村著 伊豆伝説集)
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長野県北安曇郡小谷村下寺の【姫川の河童】
昔々、エッチな河童が長野県北安曇郡小谷村下寺にいました。
ある家の便所へ夜に女の人が行くと、何者かが尻を撫でて困っていました。
これは困った!この家の主人は女の姿をして便所に行き、用を足そうとしゃがみ込むと尻を撫でたので、その手をつかみ引き上げようとすると、腕だけ残して逃げてしまいました。
翌日に河童が訪ねてきて「腕を返してほしい。返してくれれば毎晩魚を持ってくる。そしてこのお礼をお預けする」と言って文字が書かれた木をよこして詫びた。
不憫に思った主人は腕を返してやりました。
それから毎晩戸口の柱に串にさした生魚が刺してあったそうです。
尻を撫でる河童伝説は他にもありますが、同じように腕を抜かれていました。
※昔の便所はボットン便所などと言われていて、便所には穴が開いていてそこで用を足したのです。
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尻を撫でるのは河童の本性なのですが、尻は女でなくても良いと思うのですが、河童にも色気というものがあったようで、女の尻を撫でたようです。
それも夜に厠(かわや・・トイレ)に忍び寄り手を伸ばすということで、怖い、怖い。
それも河童の手は伸縮自在で都合良く出来ていたといいます。
宮崎県児湯郡都農町 大字川北分子村 【徳泉寺のカッパ塚】
約百数十年前のこと、日向(宮崎県)分子村の徳泉寺に洞光和尚という住職が住んでいました。
ある夏の夜のこと、檀家からの帰り道に馬を名貫川に乗り入れて水浴びをさせてから寺に帰りました。
和尚が休んでいると、馬のヒンと鳴く声がしてきました。
行ってみると一匹のカッパが取り憑いていて、頭の皿の水をこぼしてしまい力も失っていました。
和尚が近づくと、「もう悪いことはしないから、頭に水をかけてくだされ」と懇願してきました。
水を与えるとカッパは元気になってきました。
助けてあげたのに元気になったカッパは逃げ去り、次の夜から仲間を連れてきて寺を荒らし始めました。
和尚は腹にすえかねて七日七夜祈願を行い、石に経文を刻んでカッパを封じ込めてしまいました。
その後川の水が減少して住むことができなくなりカッパたちは困り果て、毎日、川から上ってきては経文石を撫でて刻字の有無を調べるために磨いたようになったといいます。
徳泉寺には「カッパ塚」があります。
(参考 民話・伝説 南九州・沖縄)
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【河童の恋】河童の子を身ごもった女たち
昔話で知られている陸中遠野郷(岩手県)の猿ヶ石川は昔から河童が多くすんでいたと言われています。
松崎村の川端の家では二代で河童の子を身ごもったという話が残っています。
残酷な話のようですが、生まれた子は一升樽に入れられて埋められましたが、それはそれは醜いものだったということです。産まれた子は手に水かきがあり、醜かったということです。
ーそれはこんな話でしたー
松崎の川端の家のものたちがみんなで畑に出かけ、夕方に帰ろうとしたところ、ここの女が一人川べりでにこにこと笑っていました。
次の日もまた次の日も同じことがあり、へんな噂がたちました。
女のところに村の何者かが通ってくると。始めはそっと訪ねてきていたのが、そのうちだんなと一緒にやすんでいる夜にも来るようになりました。
そのころになるとやって来るのは河童に違いないという噂になり、それは村中に広まっていきました。
家人たちや親戚の人たちも心配し、守ろうといろいろと手を尽くしましたが、何の効果もありませんでした。
母親も娘の横に寝て河童を待つことにしましたが、真夜中に娘の笑う声がしても、声を出すこともできず、金縛りになりどうすることもできなかったのです。
その娘は難産で手に水かきのある子を生みました。
この娘の母親も河童の子を生んだことがあるということです。
(参考 民話と伝説 南九州・沖縄 河童のはなし 著・武田静澄
遠野物語 柳田国男)
遠野地方では河童の子を生む話は実話として語られてきたそうです。
生まれた河童の子は埋められてしまったり、切り刻んでしまったりとありますが、河童が連れ去っているということです・・・。
遠野の河童は赤い顔をした河童もいたらしいです。
外の地にては川童の顔は青しというようなれど、遠野の川童は面の色赤きなり。佐々木氏の曾祖母、幼かりしころ友だちと庭にて遊びにありしに、三本ばかりある胡桃(くるみ)の木の間より、真っ赤な顔したる男の子の顔見えたり。これは川童なりしとなり。今もその胡桃大木あり。この家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の木なり。遠野物語59
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中伊豆雲金 【河童の傷薬】
軍曹に相磯主水頭守清(あいそもんどのかみもりきよ)という者がいました。
あるとき馬に乗って川を渡ろうとすると、馬が水中で躍り上がって、危なく水中に振り落とされるところでしたが、馬の首を抱き手綱を引きました。
守清は馬を静めて進もうとしましたが、馬は身をもがいて焦っているが進みません。
何事かと守清は川を見ると不思議なものが見えました。
なんと、黄色い長い片腕が馬の足をしっかりと握っていたのです。
「奇怪なこともあるものだ」守清はしばし首をひねって考え、彼の手は腰の太刀へかかっていました。
怪物の片腕はあっという間に切られたが、切られたまま馬の足を握っていました。
守清は馬を下りてその片腕を取り上げると、なんとも気味の悪い臭気が守清の鼻をついたのですが、それが河童の片腕だとわかると、にこにこしながら河童の片腕を持って馬を急がせました。
その夜のこと、怪しいくせ者が守清の寝所へ忍び込んできて、守清が「何者か!名を名乗れ!くせ者」と言うと、「河童でございます」と震えた声で答えた。
片腕を失った河童は青い顔をして泣いていました。
河童は「どうか腕を返してください。その代わり河童の傷薬をお渡しします」
「なに、腕を返してほしい?」守清は河童を睨みました。
「河童の傷薬は日本一の傷薬です。今ここでお渡しします」と言って河童は傷薬の秘法を守清に説明しました。
守清は河童がこんなことを知っていたのかと感心して片腕を返してやりました。
河童は喜んで出かけていったのですが、守清は河童を呼び止めて「貴様はその腕を持っていってどうするのだ」と言いました。
河童は自慢の傷薬を出して言いました。
「これをつけるとすぐに元のようになります」
守清はからからと笑った。そして自分の声に驚いて夢から覚めました。
それは夢だったのです。
「不思議な夢だ。確かに河童が来ていたが」守清は枕元に置いた河童の腕を探った。
不思議なことに確かに枕元に置いて寝たのに、片腕は無くなっていました。
「ははあ、さては」守清は飛び起きて外にでると、そこには濡れた河童の足跡がついていました。
守清は夢で河童が説明した傷薬の秘法を試して実際に使ってみると、確かに良い傷薬であることがわかり、これを売り出すことにしました。
傷薬を求める人々は殺到し、守清は雲金に居を定めることにしました。
(参考 昭和6年刊行後藤江村著 伊豆伝説集)
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軍曹に相磯主水頭守清(あいそもんどのかみもりきよ)は武田信玄の軍医を務めたそうで、この話を孫に伝えたのが始まりであるという。
実際に妙薬であったという。
【江戸合羽】(かっぱ橋の名の由来?)
江戸時代文化年間(1804~1818)の話となります。
浅草で雨合羽屋を営んでいた喜八という男がいました。
この一帯は水はけが悪い地域で、新堀川は雨量が多いと氾濫することもありました。
そこで喜八は私財を投じて新堀川の治水工事を行ったときに、多くの河童たちが手伝ってくれたので工事は順調に進み、思っていたより早く終えることができました。
手伝ってくれた河童たちは昔、死にかけていたのを喜八に助けてもらった子河童の親だったといいます。
そしてこの河童たちを見た人たちが商売を始めると不思議と成功していったといいます。
商売繁盛の神様の河童は曹源寺(かっぱ寺)の境内にある河童堂に祀ってあります。
新堀川にかかる橋を「合羽橋」と言い、かっぱ寺には著名人たちが描いた河童の絵があるといいます。あの手塚治虫の河童の絵もあるそうです。
(参考・日本怪異 伝説事典 朝里樹 監修 えいとえふ著)
入ってすぐのところに河童の神殿があり、そこには手のミイラが安置されています。 祀られている河童は、水害が深刻だった江戸時代_、 私財を投じ、治水の工事を進めていた雨合羽商の喜八を助けた、隅田川から現れた河童たちです。 一説では、合羽橋道具街の名の由来とされています。 合羽橋道具街から歩いて行ける場所にあるので、道具街行った時の寄り道にもオススメですよ。Googleマップクチコミより
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河童は江戸時代には人気があった!?
河童伝説はいろいろな所に登場していて、様々な名前で呼ばれていました。
河童伝承は目撃した人の話、(カワウソのこと?)亡くなった人が川で流されていると、河童のお化けという話が残されていたり・・・。
人や馬を川に引き込むこと、女性に悪戯をすること、尻を撫でるなど悪いことをしていますが、妖怪でもあり、水神でもあり、動物でもあるようです。
河童の子供のミイラが伝わる所もあるので、不思議な話に興味津々で広がって行ったのかもしれませんね。
河童はきゅうりが好きという話を聞いたことがあると思いますが、新潟県に残っている河童伝説には、畑の中できゅうりをボリボリ食べていた髪がボサボサの小さな生き物目撃談もありました。
捉えられて木に吊されたのだとか・・・。それは近くの川に棲む河童だったそうです。
今の時代でしたら情報はあっという間に全国に広がりますが、江戸時代に大ブームが置き、全国に広がった「河童」というもの・・・おもしろいと思いませんか?