すごい昔の恋の物語、松浦佐用姫(まつらさよひめ)の悲恋の話もずっと伝わる伝説です。
このような話が言い伝えられるというのが凄いし、今の時代でも魅力を感じてしまう私のような人が多く(たぶん・・・)いることが嬉しいです。
松浦佐用姫(まつうらさよひめ)語り継がれる悲恋物語
松浦佐用姫(まつらさよひめ)の悲恋は今の佐賀県唐津市(玄界灘に面する市)に伝わる話です。
上の画像は、出征する大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の船を見送る佐用姫が力一杯領巾(ひれ)を振っている銅像で、鏡山山頂にあります。
愛する人との別れの辛さが良く伝わってきます。
昔々の話で万葉集(歌人筑前国司 山上億良(やまのうえのおくら))にも、
とをつひと松浦佐用姫 つまこひに領巾(ひれ)ふりしよりおへる山の名
「とをつひと」というのは「遠い人」ということで、松浦佐用姫(まつらさよひめ)は「昔の人」と万葉集歌人に歌われているのです。
「山の名」というのは、「唐津市の鏡山」は「領巾振山(ひれふりやま)」とも言われているそうです。
この歌に和して歌った古歌二首、
山の名おひつけとかも 佐用姫が この山の上に領巾(ひれ)をふりけむ
よろづ代に語りつけとし この峰に ひれふりはらし松浦佐用姫
この歌はこの物語の200年ぐらい後に歌われたそうで、古い物語がずっと続くことに改めて驚いてしまいました。
松浦佐用姫(まつらさよひめ)伝説ー佐賀県唐津市に伝わる悲恋物語ー
537年五代天皇に仕えた大豪族の大伴金村(おおとものかなむら)の息子大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は、兄とともに九州にやってきました。
大和朝廷が4世紀の後半に百済(くだら)と親交を結び、任那政府(伝説の中の話?)を樹立し、新羅(しんら)を従えていました。
新羅(しんら)は中国大陸とつうじる道をもたなかった。
そのため百済と任那の抗争が激しく行われました。
大伴狭手彦(おおとものさでひこ)は新羅を討つために朝鮮半島に進攻することになり、松浦の地を選びました。
松浦潟で軍船の整備や食物の調達などの準備が行われ、その間、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の身の回りの世話をしたのが、長者の娘の松浦佐用姫(まつらさよひめ)でした。
二人はたちまち恋に落ちてしまいました。
ついに出征のため別れる日が訪れました。松浦佐用姫(まつらさよひめ)は鏡山に登って大伴狭手彦(おおとものさでひこ)を見送りました。
松浦佐用姫(まつらさよひめ)が必死に登り、領巾(ひれ)を振った鏡山は「領巾振り山」とも言われています。
見えなくなっていく大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が乗った船を追い、松浦佐用姫(まつらさよひめ)は松浦川を渡りました。
川辺の岩で足を止め、そこが佐用姫岩と言われています。
唐津の松浦川河口近くにある「天然の」庭園。遠く出征する恋人を見送っては悲しみのあまりに石になってしまった松浦佐用姫の伝説の場所である。この「望夫石」説話が南朝劉宋の皇族劉義慶の著作『幽明録』に採録されてあり、香港沙田の「望夫石」もこの佐用姫岩とその伝説内容が重なるため「同様の伝播が曽て香港と日本に及んでいたことが窺えよう」と香港を解説した書籍にあっては仰天。しかし、香港の原住民である百越を含む越が呉を下し(紀元前473年)ては山東半島に近い琅琊(江蘇省連雲港市)まで領したとあり、刺青を入れる海洋民族であった越が山東半島から黄海を渡り、朝鮮半島を経由して緑豊かな日本まで来たと考えるのもおかしくはない(「越」の糸魚川で産出する翡翠は珍重されたであろう)。倭の五王が南朝にしか使節を派遣していないのは、北朝が劉宋を「島夷」呼ばわりしたように「縁とゆかり」があったのかもしれない。呉王闔閭の墓所である蘇州の虎丘、越王勾践の霊廟?である紹興の越王台も実は「磐座」ではないかとうすうす疑っていたが、そんな遥か南方との交流を想像するのは何と言っても勝手気ままで楽しい。そしてここのまるで研磨したかのように丸い石からなる聖地は、その夏の午後にあって何も語らないとはいえ、岩の立てかた、寝かせ方を見ては例えば俵屋宗達の関屋・澪標図屏風にあるような日本の「庭園」と言われて違和感を覚えない感性を思うにつけ、日本の美意識の源流の1つではないかと思ったりする。Googleマップクチコミより
佐用姫が濡れた衣を干した岩、衣干山(きぬほしやま)は鏡山のマップで確認してください。
3年唐津にいて初めて鏡山に登りました。ここまで景色が綺麗だと思ってなくて驚きました。海岸線の景色としては全国的にも上位にランキングするのではと思います。Googleマップクチコミより
ここでは縁結びの御利益が信じられているそうです。
愛の鐘というものもあり、心を合わせてならすとなお良いらしいです。Googleマップクチコミより
佐賀県唐津市 加部島(かべとう)で佐用姫は悲しみのあまり石になってしまったという。
加部島(かべとう)にある田島神社内の田島神社内佐與姫神社(佐用姫神社)にある望夫石(ぼうふいし)が石になってしまった佐用姫と伝わっています。
加部島(かべとう)まで走ったというので、佐用姫は元気があったのだと思ってしまいました。
(参考・グラフィック版 民話と伝説 北九州・Wikipedia)
これが伝説のおもしろさです。話の内容は今の時代でしたら、恋愛では良くあることだと思うのですが、山を駆け巡る話になったり、まったく違う内容の伝説が誕生したりします。
おわりに
佐用姫伝説は日本の三大伝説と言われています。
日本の三大伝説には、多くの人々が知るところとなったものが存在します。その中でも、天の羽衣、浦島太郎、松浦佐用姫の話は、日本文化の中で特によく知られたエピソードとなっています。
それぞれに価値観や信仰、歴史背景が込められていることが一つの特徴です。それぞれの話には深い意味や教訓が含まれており、現代においても人々を魅了し続けています。
伝説の中には、日本の自然や風土、信仰などが織り込まれていることも特徴の一つです。これらの物語は、まさに日本文化の豊かさを表していると言えますよね。
日本の三大伝説は、日本文化の深淵な世界を味わうことができる、貴重な宝物と言えます。