昔々のお話

鬼女、鬼婆はこんなに怖かった!昔話、伝説をご紹介します

昔から伝わる鬼女の話をご紹介します。ここではあなたの家にもいる?鬼女ではなくて(笑)、昔々の伝説の鬼女の話です。

女性が怨念によって鬼のようになってしまったと言われ、若い人は鬼女、老婆は鬼婆と言われています。

鬼女、鬼婆はこんなに怖かった!

鬼女、鬼婆はこんなに怖かった!昔話、伝説をご紹介します

あなたの街にもこんな鬼女、鬼婆の昔話や伝説が残っているのではないですか?

探ってみるとおもしろいと思います。

安達ヶ原の鬼女の物語 福島県二本松市安達ヶ原

鳥山石燕『画図百鬼夜行』より「黒塚」Wikipediaより

安達ヶ原の鬼女の話は後世まで語り継がれる恐ろしい話となります。
平兼盛の「みちのくの安達が原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか」(拾遺和歌集 巻九)と歌われるように、平安時代にはすでに安達ヶ原の鬼は都まで知られていました。

福島県二本松市安達ヶ原の観世寺には鬼婆が祀ってあります。

陸奥(みちのく)への通路である安達ヶ原は阿武隈川(あぶくまがわ)東側に位置する寂しくて広い原でありました。

ある日、一人の修行僧が安達ヶ原にさしかかったときの話です。修行僧は身の毛もよだつような恐ろしい気配のするこの原を一刻も早く抜けだそうと足を早くしていました。

早く人家を見つけ、この気味の悪い鬼気を逃れねば・・・と焦る修行僧。

すると、行く手に灯りが見えました。修行僧はそこを目指してまっしぐらに走りました。

「お頼み申す、道にはぐれた修行僧です。一夜の宿をお願いしたい」と言うと、入り口の戸が開き、一人の老婆が出てきました。

老婆は快く中に入れてくれて、鍋の粥を勧めてくれました。修行僧は見かけとは違い、優しい老婆に感謝しました。

老婆は「今夜は冷えるのう。わしは焚き木を採りに出かけるが、奥の部屋は覗いてはなりませぬ」と言い、外に出ていきました。

修行僧は変なことを言うとは思ったのですが、言われるままポツンと座っていました。しかしいくら時が経っても老婆は戻ってこない。

やがて不安と好奇心で、おそるおそる奥の部屋を覗いてしまった修行僧は全身の血が凍るような恐怖を感じてしまいました・・・。

そこには・・・腐った人の腕や足が・・・長い髪の女の生首が目を見開いてこちらをにらみつけていたのです・・・。

切り刻む包丁や素焼きのカメなどが無造作に転がり、血肉を喰うという噂の鬼婆なのか。

「噂の安達ヶ原の鬼婆はあやつであったか」と修行僧は夢中で外に飛び出すと一目散に走り出しました。

それを知った鬼婆は白髪を逆立て、口は耳まで裂き、もの凄い形相で追ってきたのです。

「もはやこれまで」と覚悟を決めた修行僧は持っていた如意観音(にょいかんのん)を取り出して呪文を唱えました。

と、突然闇を裂いて一条の光が走り、観音様がすくっと立ち上がり破魔の真弓に金剛の矢で鬼婆をめがけて射った。

老婆は黒塚に葬られました。(参考 民話と伝説 東北、Wikipedia

観世寺 福島県二本松市安達ヶ原

この伝説は多くの人たちに知られていて、歌舞伎、能、神楽などの伝統芸能の演目でも扱われています。

今回ご紹介した話でなぜ老婆がこのような恐ろしいことをするようになったか気になりますよね?

もともと老婆は都の公家屋敷で病弱な姫の乳母、名は岩手と言いました。

姫の病気を治すには、妊婦の生き肝が必要だということで、岩手は自分の幼い娘を残し、生き肝を探しに行きます。

安達ヶ原に着いてそこで暮らすようになって年月が過ぎていきました。

そこに宿を求めて来た妊婦夫婦。岩手は妊婦を×して生き肝を取ってしまいましたが、実はその娘は置いてきた自分の娘でした。

そのショックから岩手は鬼婆になってしまったということです。

鬼女の手形 静岡県伊豆の伝説

『土佐お化け草紙』(作者不詳)より「鬼女」Wikipedia

文武天皇(もんむてんのう)の頃(683年ー707年)大和国葛城上郡茅原村に役小角(えんのおづぬ)という者がおりました。

若いときから葛城山(かつらぎやま)にこもって修行をする知恵者でした。32歳の時、家を捨て葛城山の山奥に入り、穴居すると鬼神妖魔を修伏する術を覚えて、天下に名をとどろかしました。

その妖術は恐ろしく、韓国広足(からくにひろたり)という者が文武天皇にこのことを伝えました。

役小角(えんのおづぬ)は捕らえられて木にくくりつけられましたが、すり抜けて天に昇り、あとには綱がそのまま地上に残っていました。

人々は驚き、自分たちの力では役小角(えんのおづぬ)を捕らえることはできないと思い、母親を捕らえてしまいました。

それを知った役小角(えんのおづぬ)は仕方なく天より下り、神妙にご沙汰(天皇の支持)を待ちました。

役小角(えんのおづぬ)は八丈島に流されることに決まりました。

その頃、伊豆の海岸地方に手石御前という鬼女が棲んでいました。悪行を繰り返して里の人を困らせていました。

八丈島に流された役小角(えんのおづぬ)は、この噂を聞いてこの地に出かけてきて、鬼女に呪文ををかけて修伏しました。

鬼女はもだえ苦しみ、役小角(えんのおづぬ)の前で許しを乞いましたので、「二度とこの地に来るなかれ。詫びのしるしに手形を残せ」と命じました。

鬼女は石に手をあて、逃げていって再び姿は現さなかった。石にははっきりと手形が残されていました。

この石を「手石」と言い、このときから地名を「手石」と言うようになったそうです。

(参考 伊豆伝説集、伊豆の民話)

賀茂郡南伊豆町手石

妙多羅天女(みょうたらてんにょ)新潟県西蒲原郡弥彦村

妙多羅天女(みょうたらてんにょ)と美しい神様を想像させる話ではありますが、鬼婆の話なのです。

妙多羅天女(みょうたらてんにょ)は彌彦神社(いやひこじんじゃ)の鍛冶匠(かじしょう)の黒津家の老婆のことです。

承歴三年(1079)彌彦神社造営の際、上棟式をとりしきる司祭は黒津家に任されていました。

今回も黒津家の当主である弥三郎が司祭になると誰もが思っていましたが、神社の工匠たちの争いとなり、司祭役を黒津家から取り上げてしまいました。

黒津家の人々は怒り、その中でも60歳になる母は、「我が家を侮蔑(ぶべつ)する者は許すことができない。わが身を魔性に売り渡し、呪い殺してやる」

老婆の呪いが通じたのか荘司と工匠たちは次々と原因不明の死を遂げていったのです。

悪魔になった老婆は髪の生え際から角が生え始め、鬼婆となってしまいました。

そのころ夜になると村の墓場が荒らされ、死体が喰われたり、子供がさらわれたりする恐ろしい事件が相次いで起きたのです。

「弥三郎の母親は悪行を重ねているそうな」と村人たちの間で噂が広がりました。

弥三郎は猟で弥彦山に出かけ、鬼婆と会ってしまい、獲物を奪われそうになったので、素早く鬼婆の右腕を切り落としてしまいました。

ぎゃー、鬼婆は逃げ出していった・・・。

家に帰った弥三郎は母の寝床に行くと、血まみれになった母親が右腕を持って横たわっていました。
やはり、噂通り鬼婆は母親であった・・・。

鬼婆はさっと身をひるがえし、空に飛び出していきました。「弥彦の鬼婆」は悪行を繰り返すようになり、宝光院の裏の婆杉に住みついてしまったのです。

宝光院座主典海阿闍梨(てんかいあじゃり)が婆杉に近づき読経をはじめました。

すると、すさんでいた鬼婆の心は不思議と和らぎ、これまでの悪行を悔いた。そして自ら典海の弟子となり、名も妙多羅天女(みょうたらてんにょ)と改め、世のために尽くすようになりました。
(参考・民話と伝説・甲信越・飛騨)

真言宗紫雲山龍池寺宝光院

婆々杉

推定樹齢1000年、樹高40mの県指定天然記念物の杉。 鬼婆伝説にふさわしく荒々しく枝が伸びており、文句なしの良い巨樹。(Google mapくちこみより)

彌彦神社

なんと紀元前392年にその歴史がスタートするという2400年以上の越後一宮、霊験あらたかなパワースポット感に満ち溢れた神社でした。標高634mの弥彦山を背景に広がる森の一角に社殿があります。城山通りに面する祓戸神社前の駐車場に車を停めて、真正面にある拝殿まで歩き、参拝し、遊歩道を通って社家通りを戻りました。初めて立ち寄りましたが、とても雰囲気のある神社は立ち寄って本当に良かったと満足しました。(Google mapくちこみより)

鬼女紅葉 長野県上水内郡鬼無里村

平安時代天暦7年(953)の頃の話です。
京都四条通に大きな商家があり、紅葉というどこか不思議な雰囲気をたたえた美しい娘が住んでいました。
毎日琴を弾き、人々の心を妖しく捉え、その美しい容姿とともにその評判は帝(みかど)の知るところとなりました。

宮中に召された紅葉は帝の寵愛を受けるようになりました。

紅葉は帝の愛を独占しようと妖しげな術を使い、后(きさき)を亡き者にしようと企みました。
やがてその企みは帝の知るところとなり、紅葉は遠い信濃国戸隠に配流(はいりゅう)されることになりました。

戸隠から離れた荒倉山にこもった紅葉は、岩家を住処とし、帝や都に復讐の思いをつのらせていきました。

村人たちはこの美しい娘に奇異の目を向けましたが、紅葉の妖しい術は村人の病を治し、干ばつを救ったりしたので、次第に紅葉を慕うようになりました。

一方で紅葉は復讐の準備を整えていたのです。

そのころ荒倉山で紅葉の妖術を知った野盗(やとう)や山賊たちは、紅葉を襲うようになったが、その都度嵐を起こしたり、雪を降らせたりする妖術に、降参して配下となっていきました。

ありとあらゆる悪行を重ねた紅葉でしたが、その対象は貴族や武士で、農民を苦しめることはありませんでした。

やがて紅葉の悪行は都にも伝わり、帝は平維茂(たいらのこれもち)を信濃守に命じ、鬼女紅葉の討伐を命じ、紅葉一族が住む荒倉山を攻撃させました。

しかし岩家を前に手も足も出すことができませんでした。
紅葉の使う妖術は山鳴りを起こし、火の雨を降らし、突風を呼び、維茂の軍勢は矢を一本も射ることができなくて退却をしました。

何度攻撃しても結果は同じでした。

維茂は観音祈願に最後の望みをかけて北向観音堂に七日間の参龍(さんろう)をしました。
最後の夜、観音から降魔の剣(こうまのけん)を授かり、紅葉討伐の進軍を開始しました。

降魔の剣は妖術を封じ、紅葉も最後を迎えました。

その霊を祀った五輪塔が「鬼の塚」として現在も残っています。

鬼の名は「紅葉」というのもおかしいのですが、鬼女退治の伝説は時の権力が作り出したものだろうということです。

戸隠の伝説として語り継がれています。(参考・民話と伝説・甲信越・飛騨)

長野県上水内郡鬼無里村 松厳寺

歌舞伎の演目でも有名な鬼女紅葉に所縁が有る古刹。「鬼無里」と言う何故だか不思議な地名の由来ともなって居る「紅葉」ですが本堂内に飾ってある縁起を見ると必ずしも「悪いだけの鬼」では無いような気もしてきます。いずれにせよ観光地化されておらず静かな鬼無里の里が味わえるスポットです。Googleマップクチコミより

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