昔々のお話

2024年新千円肖像画、北里柴三郎の別荘が温泉地伊東にありました

2024年に1万円、5千円、千円の紙幣が一新すると発表がありました。
その中の千円札の肖像画に選ばれた細菌学者の北里柴三郎は、静岡県伊東市の街づくりにも貢献されていました。

田舎の温泉街伊東という街には別荘を建てました。
別荘の計画は明治44年頃から始まり、なんと1万平米もの広い土地を購入されたとのこと。
別荘の建築の完成は大正3年で、現在はその場所は幼稚園になっています。

残念なことに別荘は取り壊されていますが、別荘族として伊東という街で過ごされてきた痕跡は所々で感じることができて、幼稚園には現在でも当時の庭園の美は生かされています。

伊東の街に別荘が完成された頃には北里研究所が設立されていました。

1914年(大正3年) – 伝染病研究所が内務省から文部省に移管され東京大学に合併される時、移管に反対して所長を辞任。この時、志賀潔を始めとする研究所の職員全員が一斉に辞表を提出した。伝研騒動といわれる。11月5日に私費を投じて北里研究所を設立。Wikipedia

我が国最初の温泉プール!?

温泉が豊富な伊東の街に温泉プールの新設を提案されたようですが、そのような予算がこの街にはなかったのです。
そこで自分の別荘内に大きな温泉プールを建設したと資料に残されています。

「北里の千人風呂」と呼ばれていたそうです。

おもしろいことも書かれていました。
当時のトイレはだいたいの所は水洗トイレではなかったと思いますが、別荘内のトイレは水洗トイレでした。

びっくりですね。大正3年に完成された別荘ですよ。

伝染病から日本を守った北里柴三郎は伊東という街に別荘を建て、「細菌学者の別荘」を建てたことの罪滅ぼしのように伊東の街に貢献してくれたような気がします。(個人的な見解)

ただこの頃には幕末から日本を苦しめてきたコレラの流行はなくなっていたようです。

伊東の職人の高い技術水準の温泉浴場

別荘の温泉浴場は男女の別々の浴場があり、浴槽はタイル張りだったとのこと。男女別々の浴場があるという個人の別荘って豪華だったのでしょうね。

この温泉浴場は古来からの製塩川の天井工法を取り入れていました。常に湯気を上げる配慮がされていました。
複雑な唐傘天井を配していたのです。

当時の伊東の職人の技術はとても高かったようです。
当時の伊東の職人の高い技術は今も残されている建築物などにより、素人の私でも感じることができます。

北里別荘建築後に北里柴三郎が棟梁に感謝状を送っていました。
大工職の素晴らしさ、見事な出来栄えに感謝されています。

その他にも伊東の街に貢献をしていました

伊東の街に通学橋架設・伊東線敷設(ふせつ)にも力を尽くしてくれました。

上の画像は「伊東市立図書館 伊東ー人物誌」に掲載されているもので、資料として参考にさせていただきました。
写真は「通学橋開通記念式の日」のときのものです。

伊東の街でのんびりするだけでなく、伊東という街に貢献をしてくれていたことが分かる本です。

通学橋は当時の伊東尋常高等小学校(今は小学校になっています)に通学する橋が仮橋で危険な状態であったので、自費で通学橋を架け替えてくれたのです。
その直後暴風雨により橋が決壊すると、また自費で橋を架け替えてくれました。

伊東温泉と別荘

北里別荘は伊東温泉に大きな影響を及ぼしています。
熱海から伊東への県道が開通すると、東京から伊東への移動が便利になったので、著名人の別荘が次々と建築されるようになったのです。
温泉と温暖な気候が良かったのでしょう。

昭和に入ってからは東郷平八郎、若槻礼次郎、有名な文化人たちも別荘を持ったり訪れていました。

2024年に1000円紙幣に北里柴三郎、近代医学の父、細菌学者が肖像画に選ばれたことは小さな街伊東にも嬉しいことだと思います。

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アメブロを続けて10年が経ちました。ブログを続けることで実感ができた有益なこと、続けていく意味なども含めて、このブログも継続をしていこうと決めました。 このブログでは「年齢を重ねても美しい女性」の外見だけではなく、内面も追って行きたいと思っています。 そして年齢を重ねての「経験」「感じてきたこと」「これからのこと」も綴っていきます。 私自身も前向きに生きて行きたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いいたします。