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新千円肖像画、北里柴三郎の別荘が温泉地伊東にありました

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千円札の肖像画に選ばれた細菌学者の北里柴三郎は、現在の静岡県伊東市、伊東という温泉地に明治時代に別荘を建てることを計画し、1913年(大正2年)別荘を構えました。

大正時代の産業日本の美意識を深く体現し、文化的な価値も高いものでした。

伊東の街づくりにも大きく貢献されていました。

別荘の計画は明治44年頃から始まり、なんとこの時に1万平米もの広い土地を購入されました。
市中心部に流れる松川沿いに別荘は建てられました。現在は壊され、幼稚園になっています。

残念なことに別荘は取り壊されてしまいましたが、別荘族として伊東という街で過ごされてきた痕跡は所々で感じることができ、幼稚園には現在でも当時の庭園の美は生かされています。

伊東の街に別荘が完成された頃には北里研究所が設立されていました。

1914年(大正3年)伝染病研究所が内務省から文部省に移管され、東京大学に合併されるときに所長を辞任されました。私費で北里研究所を設立しました。(参考・Wikipedia)

2024年新千円肖像画、北里柴三郎の別荘が温泉地伊東にありました

北里柴三郎が伊東という温泉町に別荘を建てたのは、北里柴三郎博士の弟子が伊東で開院していたため、土地の斡旋依頼があったためとされています。

そして1万平米余りにも及ぶ広大な土地を取得されました。

東京から近い別荘地として熱海温泉と共に伊東温泉にも別荘が建ち始めたのは、明治時代後期の頃です。

そのような中で建てられた細菌学者であり日本医師会の初代会長であった北里柴三郎の「北里別荘」は伊東温泉に大きな影響を及ぼしました。

1913年、北里柴三郎は市の中心部を流れる松川沿いに別荘を建て、その敷地内に日本初の屋内温泉プールを建設しました。

畳100枚分の広さのこのプールは、地元の人たちに開放され、「北里さんの千人風呂」と呼ばれ親しまれました。伊東の名を全国に広めるきっかけとなり、著名人などを呼び寄せ、伊東の別荘文化を盛り上げることになったのです。

別荘はレジャーと活性化の雰囲気を醸し出し、日々の都会の喧騒から解放される歓迎された場所であったようです。北里氏の千人風呂は、この地域に一体感をもたらし、街に多大なる恩恵を施してくださいました。ー地元の資料を元にまとめましたー

北里の千人風呂

地元資料より

北里柴三郎は伊東町曾に温泉プールを造ることを提案されましたが、温泉が豊富な伊東の町ではあったのですが、当時伊東町には予算がなかったようです。

そこで自分の別荘内に大きな温泉プールを建設したと資料に残されています。

「北里の千人風呂」と呼ばれていました。

ハンガリーのブダペストに留学されていたときに、市営の大きな浴場や温泉プールを見学して、温泉が病気の予防や治療に良いと感じたからでした。

長さ20メートル、幅10メートル、深さ2メートルという大きな温泉プールは、3箇所の源泉口があったという。

立派なものを造ってしまいましたね。伊東の一般の人や子供も利用できたそうです。

伊東水洗便所

当時のトイレは便所と言われていて、水洗便所ではありません。

ですが、北里別荘内の便所は水洗便所だったのです。

大正3年に完成された別荘のトイレが水洗便所だったとは驚きです。

製塩用天井工法の温泉浴場

北里別荘の温泉浴場は男女別々でした。浴槽はタイル張り、天井は常時湯気を上げる浴場に配慮された製塩用天井工法が取り入れられていました。

複雑な唐傘天井を配していたのです。

当時の伊東の町の職人の技術はとても高かったようです。
当時の伊東の町の職人の高い技術は今も残されている伊東市の建築物「東海館」などにより、確認をすることができます。

北里別荘建築後に北里柴三郎が棟梁に感謝状を送っていました。

大工職の素晴らしさ、見事な出来栄えに感謝されています。

唐傘天井とはどういうものかTwitterからお借りしました。(北里別荘のものではありません)

 

実際の浴場の天井がこのようだったかはわかりませんが、唐傘天井とはどういうものかわかることができましたね。

素晴らしい庭園

庭園にも力を注ぎ、銘木、庭石なども利用して見事な庭園を造りました。

池には近くの音無川から川水を取り入れ、鯉も飼われていたとのこと。

庭園は今でも幼稚園で生かされています。広い庭園では運動会が行われたりします。

その他にも伊東の町に貢献されています

 

伊東の町に通学橋架設・伊東線敷設(ふせつ)にも力を尽くしてくださいました。

上の画像は「伊東市立図書館 伊東ー人物誌」に掲載されているもので、資料として参考にさせていただきました。

写真は「通学橋開通記念式の日」のときのものです。

伊東の町でのんびりするだけでなく、伊東という街に貢献をしてくれていました。

通学橋は当時の伊東尋常高等小学校(今は小学校になっています)に通学する橋が仮橋で危険な状態であったので、自費で通学橋を架け替えてくれたのです。

その直後暴風雨により橋が決壊すると、また自費で橋を架け替えてくれました。

台風のときに小学生が不完全な仮橋を渡っていたのを見て、気の毒に思ったとありました。

伊東温泉と別荘族

北里別荘は伊東温泉に大きな影響を及ぼしています。
熱海から伊東への県道が開通すると、東京から伊東への移動が便利になったので、著名人の別荘が次々と建築されるようになったのです。
温泉と温暖な気候が良かったのでしょう。

伝染病から日本を守った北里柴三郎は伊東という街に別荘を建て、「細菌学者の別荘」を建てたことの罪滅ぼしのように伊東の街に貢献してくれたような気がします。

大正年間に伊東町の玖須美消防団で新しい消防自動車を購入することになったときのことですが、このときに奉加帳(ほうがちょう)(寄付を集めるために持って回り、名前と金額を記入して置く)を持って回ったところ、別荘族の5軒ほどで目標を達成したそうです。

別荘族はお金持ちだったのですね。北里柴三郎壱百円也と最初に書かれていたそうです。

最初に壱百円也と書かれていて、次々と右に習っていたというので、5軒ぐらいが壱百円の寄付だったのでしょうか・・・。

この頃の小学校教員の初任給が12円~20円だったらしいです。

北里別荘の近くに広大な土地を持っていたのが高橋是清(たかはしこれきよ)です。

別荘予定地として持っていたとのこと。

高橋是清は第20代内閣総理大臣ですが、それよりも印象深いのが昭和に入ってからの金融危機を沈静化させたということでしょうか。

昭和に入ってからは伊東の町に東郷平八郎、若槻礼次郎、有名な文化人たちも別荘を持ったり、訪れていました。

2024年の新千円紙幣に近代医学の父、細菌学者の北里柴三郎が肖像画に選ばれたことは小さな街「伊東」にも喜ばしいことなのではないかと思います。

(参考・伊東ー人物語)

 

まとめ

2024年新千円肖像画の「近代日本医学の父」として有名な北里柴三郎の別荘が伊東にありました。

地元の図書館に行くと、「北里柴三郎」関連の本や資料が残されているので、伊東とのつながりが良くわかります。

伊東の街の発展に大きく貢献されていました。

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