昭和の初めごろの伊豆の伝説の本に出会って読んでみたのですが、これがなかなかおもしろいのです。
過去の災害に繫がっているのであろう伝説の内容に、後世に伝えているのだと思いました。
天変・地異・災厄・・・伊豆ではどのようなことが起こってきたのでしょう。
地震や噴火、土砂崩れ、大火事など繰り返して起きてきたことがわかります。
昭和の初めごろの本にも書かれている伝説などが、今の時代まで伝えられていることが驚きです。
昭和の初めごろにこの本を書いた方が、古老を訪ねて埋もれている伝説を更に掘り出してみたいと書かれていて、どうなったのか気になるところです。
今回は伊豆で起きた元禄までの地震を昭和の初めに書かれた「伊豆伝説集」よりご紹介します。

伊豆で起きた元禄までの地震

伊豆伝説集より
正史(歴史書)に留められた最初の伊豆地震であろう。と書かれているのは、承和8年(841年)7月1日に伊豆国で起きた大きな地震です。
承和は834年から848年の仁明天皇の頃です。
この大きな地震の震源は「丹那断層」であるそうです。
もちろん昭和の初めのこの本にはそんなことは書かれていません。
「丹那断層」は箱根の芦ノ湖から伊豆市修善寺まで続く活断層です。
この断層は活断層で、約700年から1000年の周期で定期的に活動しています。
実際に昭和5年に起きた北伊豆地震でできた断層のズレを伊豆市に見に行きましたが、横ズレが2・6メートルぐらい起きていました。
ここは断層のズレや断層の解説や北伊豆地震の被害状況などが分かるように写真などが展示されています。
次に書かれていたのは、慶長元年5月に大地震があったということです。
慶長年間は1596年~1615年、この間に日本で起きた地震は続けて起きています。
Wikipediaには、
慶長大地震(けいちょうおおじしん)は慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震。
慶長の大地震(けいちょうのおおじしん)ともいう。
ただし、正確には慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震発生は文禄5年であり、その後、これらの天変地異を期に文禄から慶長に改元されている。
慶長19年10月に伊豆一帯に強震があり被害甚大とあります。大きな地震が次々と起きていたのですね。
元禄16年11月23日の元禄地震では伊豆沿岸一帯に大きな被害があったと書かれていて大きな津波が襲いました。
人畜の死傷も多く、伊豆の多賀では海面よりも十丈も高い丘の木の枝に海藻が乗っていたというので発見したときは驚いたのでしょう。
十丈は33mぐらいなのではないかと思います。
上の画像でも分かりますが、伊東では東浦宇佐美(昭和の初めは東浦宇佐美だった!?)で死者600名、伊東では200名と数えられていました。
次の地震は江戸時代の天明の頃(1781年~1789年)と文化の頃(1804年~1818年)に大きな地震があったと書いてありますが、この本には詳細は書いてありません。
安政元年10月4日の大地震は最も強烈であったということです。安政の大地震ですね。
三島町は全部倒壊、三島明神も破損、修善寺温泉はこの時温泉が絶えたようです。
田中村地方というところでは、物凄い彗星が見えたと書いてあるので、なんのことだったのでしょう。
この時代ですから自力で生き延びるしかありません。山に小屋を建てて避難をしていたそうです。
元禄地震体験記
「伊東の今・昔」という本に元禄地震が起きた当時の宇佐美村の名主の家系である荻野さんという方の体験記が記されています。
地震直後に発生した津波が押し寄せた様子が書かれています。
はじめはゆっくりと揺れ、だんだんと激しく揺れてきて、外に出ると藪の中や山側へ駆けあがった者が数百人いたそうです。
夜中の2時頃に発生していますので、寝ていた人たちはその後に襲来した津波によって沖合に引き取られていったとあります。
半里(約2㎞)ほど沖合に迫ってきた津波は 黒い雲に白布の帯をしたように見えた そうです。
山のように海岸へと押し迫って陸地へと打ち上げ、浜通りの300軒余りの家屋が押し倒されて沖合へと流されてしまいました。
地震発生後に間もなく津波が押し寄せているようです。
伊豆に伝わる元禄地震に関係する伝説
伊東市の川奈というところに伝わる話です。
元禄大津波とお玉さん 著・山本悟
川奈の海は、昔は切り立った断崖絶壁の慈眼院というお寺のすぐ近くまで迫っていました。
この崖にはタマグスの大木が何本も生えていました。この大木に14~15そうの廻船がつながれていました。
元禄十六年(1703)十一月二十一日の夜のこと。
早々と夕飯をすませた囲炉裏端。鉄き(脚の付いた焼き網)の上には、塩煮した里芋が山のように積まれていました。
里芋の焼け焦げるにおいに誘われるように、あちこちからすうっと手がのびます。
カーカーカ・カ・カ
突然さえ渡る夜空に鋭く突き刺さるような鳴き声。
「カラスの鳴きが悪いと、人が死ぬって言うけれど、よりによってこんな夜更けになぁ」
じいちゃんのつぶやきが合図であったかのように海の方でカラスが鳴けば、山の方からもカラスが鳴く。
「こんな夜はな。みんな早く寝るに限るぞ」
じいちゃんに言われて、おっかあは慌てて囲炉裏の火に灰をかぶせました。
子供達はじいちゃんに追い立てられるようにして、布団に滑り込みました。
暦が二十二日に変わった夜中、午前三時ころのこと、ドッ、ドッ、ドドーン寝静まった家々は地響きとともに大きく揺れました。
「地震だぞー!」
倒れた家の中から、叫び声と一緒に子供の泣き声、辺りは真っ暗闇。
「どこ?じいちゃんどこ?」
「おう、ここだ、ここだ」
つぶれた家の中からやっとはい出した人たちは山の方へ駆けあがっていきました。
人々は繰り返す余震と、コーッという海鳴りの音におびえながら、眠れないまま夜明けを迎えました。
信じられないほどの静けさで東の海から日が昇りました。
けれど海辺には津波で流され、また押し戻された家々の柱などの一面の山。
「あれっ、あんなところに」
海辺にいた一人がとんきょうな声をあげました。指差すその先は慈眼院下の崖っぷちのタマグスの木。
若い娘がその枝に長い髪を絡ませ、引っかかっています。
「お玉さんじゃねえか」
木の上から無事に助け出された娘さんを見て、近所のおばさんが声をかけました。
「ご自慢の長い髪がさ、命を救ってくれたとはなあ」
おばさんは、髪の毛の中に絡みついたタマグスの小枝を取り除いてやりました。
たくさんの家を壊し、百人以上の死者を出した元禄の大津波から数十年が経ちました。
川奈の人たちは、慈眼院下のこの港を、いつか玉の木港と呼ぶようになりました。
川奈の郷土史・他より
まとめ
大きな地震は何度も起きていて、そのたびに伝説が生まれ、後世のためにそのときの様子が伝えられているような気がします。
神社などに行くと石碑が残されていたり、津波の痕跡を伝えてくれるものも存在します。
昔は災害が起きると山に入って小屋を作っての生活で食べ物も山や海で探していたといいます。
生き抜くために我先に食物を探し求めたのです。
今の時代、そのようなことが起きた場合、生き抜く自信があるのだろうか・・・考えてしまいました。
江川英龍(担庵(たんあん))が家臣の娘が嫁にいく時に書き与えた訓言
