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奈良の大仏つくるのにかかったお金はどのくらい?

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イヤらしいかも知れませんが、歴史とお金を結び付けて考えてみました。

急に「あれ?」「ここで?」というところで考えてしまうことがあります。変ですかね?(笑)

修学旅行で行った学生の頃には疑問を持たなかった「奈良の大仏」は、いくらかかったのだろう。

いったいいくらかかって、どのぐらいの年月とどのくらいの人が関わったのでしょう。

気になったので調べてみました。

奈良の大仏はいつ造られたの?

奈良県奈良市の東大寺大仏殿に鎮座する「廬舎那仏像(るしゃなぶつぞう)、「奈良の大仏」と言われています。

圧倒的な存在感のある大仏様ですが、いつ造られたかわかりますか?

「大化の改新」から100年後の745年(天平17)年に聖武天皇の願いで建造が開始されました。天平勝宝752年に開眼供養会(かいげんくようえ)がこのときに行われました。

完成までは7年とか9年かかったと言われています。

約1300年前の奈良時代に聖武天皇が仏教の力で国を鎮めようと願ったのです。

この頃は天災や病(天然痘)、争いなどで混乱していた時代でした。

歴史は繰り返す・・・そう思ってしまいます。

大化の改新とは、

大化元年(645)から翌年にかけて中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって行った、蘇我氏打倒に始まる一連の政治改革。唐の律令制を手本として、公地公民制による中央集権国家建設を目的としたもの。皇族・豪族の私有地・私有民の廃止、地方行政制度の確立、班田収授の法の実施、租庸調などの統一的な税制の実施などをうたった改新の詔(みことのり)を公布。大宝元年(701)の大宝律令の制定によってその政治制度は確立した。 デジタル大辞泉より

私が大昔の中学生の時に、修学旅行から帰って来て、旅行に関するファイルを作成して「賞」を頂いたので大化の改新を思い出しました。(笑)

奈良時代、民は飢餓や度々繰り返される戦いで疲弊していました。聖武天皇は多くの民を救いたいと願い、大仏の建造が開始されました。

いったい大仏さまにはいくらかかった?

(参考本「ここが一番おもしろい日本史のお値段」編者 歴史の謎研究会 発行者 小澤源太郎)

まず大仏の総重量は約250トン、全長約16m、顔の長さ約5mという巨大な大仏さまです。

因みに鼻の孔の大きさは37㎝×30㎝ということです。

大仏を下から見上げたときに鼻の穴が気になりました。(笑)

大仏殿の中にある一本の柱に穴が開いています。

その穴が大仏の鼻の穴と同じだと言われています。行くときがありましたら、この柱を見つけて穴の中に入ってみてください。

くぐることができるようです。

大仏は純銅製で建造当時の資料によると、集められた銅は500トンとか700トンともいわれているそうです。

当時の銅銭1枚に使われていた銅の量から換算すると、銅銭1億枚以上もの銅が使われていたことになるそうですが、見当がつかないですね。
奈良の大仏は、

関西大学の宮本勝浩教授が試算したところ、500トンの銅、人件費、住居費で3363億5000万円かかるとし、このほかの費用も含めると、さらに費用は増えるという。建築エコノミスト、森山高至さん監修「巨大建築物の世界史」より。

銅だけではなく、鈴、金、水銀、木炭なども使われています。

材料はどうやって集めたの?

聖武天皇が「国の銅をすべて使って大仏を造る」と宣言をしたので、金は今の長崎県の対馬国から、銅は山口県や関東地方からと全国から集めたようです。

工事には260万人以上が関わりました。当時の人口の約半分なのだとか。

工事に必要な予算は当時の国家予算の3倍以上だといいます。

仏教僧、行基との関わり

奈良時代に民衆から菩薩様と言われていた仏教僧の行基。
そんな行基と大仏との関わりとはどのようなものだったのでしょうか。


画像はWikipediaよりお借りしました。

地元の昔話にも良く出てくる行基(ぎょうき)という僧がここに登場するとは思っていませんでした。

行基は奈良時代の僧で、私は行基が発見したという温泉の話の本を読んだことがあります。

どうしてそこに繋がっているのか良く分からないのですが・・・。当時の有名な僧だったのですね。

行基は大仏建立の費用の不足分をまかなうために全国を行脚して庶民から寄付を集めました。

朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。Wikipedia

もともとは僧とは認められていなかったそうで、勝手に僧の肩書を名乗っていたといいます。

人々のために尽くす姿や困窮者の救済に努力する姿に庶民から支持を集めました。民の信頼が厚かったということです。

聖武天皇はどうして大仏さまを造った?

天平時代(奈良時代)は相次ぐ災害、飢饉、凶作、感染症(天然痘)の大流行などが起こり、苦しい時代でもありました。
天平17年4月27日に美濃国を中心に地震がありました。天平7年から天平9年の頃には天然痘が大流行となり、多くの人が亡くなりました。

そこで聖武天皇は、天下が幸せになりますようにと国分寺や東大寺の大仏の建立を行っていき、様々な政策も実行していきました。

まとめ

奈良の大仏は745年に260万人(当時の日本人2人に1人が参加)で、当時の銅銭1億枚以上と鈴、金、水銀、木炭を全国から集めて造られました。

当時の国家予算の3倍以上の費用が掛かったと言われています。

民の信頼の厚い僧の行基が全国を回り、寄付を募りました。

聖武天皇は国中の銅を集めて大仏を造ると宣言をしてやり遂げたということですね。

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